サンプル記事 tears

 十二日朝七時いくらの汽車で鎌倉行きの往復切符を買つて乘込んだ。前の晩實は、全然の責任を負つて呉れて僕とおせいの一族との中に這入つてくれてる中村氏を駒込に夜遲く訪ねたのだが、奧さんだけにお目にかゝり、それとなく事情の切迫してゐることを訴へ、その翌朝なんです。お金も八九圓しか無かつたことであり、何うしようかと躊躇はしたんだが、だん/\と事情が迫つては來る、一應――三四日しておせいはまた下宿に逃げて來たのだ――で彼女の言ひ分も確めたいと思ひ、震災以來一度も行つたこともないんだから、一通りの樣子を見て來たいと思つて行つた譯なんだが、それが飛んでもないことになつた。小説といふものにするんだとこんな程度のものでは面白くも可笑しくもないんだが、自傳小説の一節としては僕はやはり記録して置きたい。

 ストーヴのまわりには朝からいろいろな客が入替った。が耕吉のほかにもう一人十二三とも思われる小僧ばかりは、幾回の列車の発着にも無頓着な風で、ストーヴの傍の椅子を離れずにいた。小僧はだぶだぶの白足袋に藁草履をはいて、膝きりのぼろぼろな筒袖を着て、浅黄の風呂敷包を肩にかけていた。
「こらこら手前まだいやがるんか。ここは手前なぞには用のないところなんだぜ。出て行け!」… 続きを読む